日誌

13日、土。井筒俊彦の講座最終回。『意識と本質』に突如現れる二重性について。本質はあるのか、ないのか。結局は人生の時によって変化していくものだろう。豊子さんの解説を読まねばならない。“アラビアのロレンス”と帰りを共にする。ドミューンフェス。瀬戸内寂聴の説法はあの空間にいた人間の宗教観を変えただろう。大空間に密集して一方的に話をきく行為はそれだけで、アガる。大友良英あまちゃんバンド、NHK灰野敬二、伊東篤宏、坂口恭平冨田勲黒点と呼応する81歳。宗教について付き纏う夜明け。メルマガの購読を決めた。配信が待ち遠しい。

14日、日。樋口毅宏タモリ論』(新潮新書)読了。この本の成り立ちからしていい。吉田修一の『パレード』は中学生の時に読んだ。バカにしながら読んで、ドライででもどこかウェットな人間関係になんとも言えなかった覚えがある。この頃は、まともな本を読んでいなかった。本の広野を意識せず、手当たり次第流行りのものに手をつけていた。もう戻れない場所。『人間交差点』が読みたくなった。小林信彦『日本の喜劇人』を読み返さなくては。ラジオがやっと始動する。高橋源一郎大竹まことのラジオ言ってた匙加減に注意しよう。

15日、月。大田俊寛『現代オカルトの根源ー霊性進化論の光と影』(ちくま新書)、一章「神智学の展開」まで読む。シュタイナーと神智学の微妙な距離感をやっと理解できた。霊性進化論がいかに誕生し、神智学はそれを発展させてきたのかがわかる。ただ、オカルト本に馴染みがなさすぎて、教義の説明の理解が覚束ない。これはからだが理解してはなるまいと拒否しているようだ。かるく読み飛ばしつつ、二周目で理解できればな。『未来少年コナン』を八話まで。八話は傑作。コナンのギャグ(出会いの再現)に涙。できた男だよ。

16日、火。『未来少年コナン』最終話まで。圧巻。固定化された人間関係なんてない。固定化された気持ちもない。うつろうし、そのきっかけは思いもよらない事だ。それをこんなにうまく描けるなんて。ダイス船長、モンスリー大佐、少年のボスは立場や仲間が話しごとに変化していく。あまちゃんにおいてアキが北三陸のみんなを変えたように、コナンがみんなの気持ちを変えていった。朝まで見続けたが、爽快この上ない。また、このアニメは「災害アニメ」だった。日本以外の土壌で、このような設定はSFになってしまうだろう。宮崎駿の原点だ。津波や、エネルギーの爆発で大陸が沈んだ208年という符号から東日本地震を意識せずにはおれなかった。ありがとう宮崎駿。そのままBSアニメ夜話の「未来少年コナン」の回を見た。大塚康生の自伝読まなくてはな。『現代オカルトの根源』読了。『放浪息子』読み始める。

17日、水。『紅の豚』。1992年、監督・宮崎駿。豚になってしまった主人公は賞金稼ぎ。人間にホトホト嫌気が差していたがピッコロ社の技術者フィナとの出会いで人間を見直していく。結末ではジーナとフィナの恋敵の友情と、戦う豚の変わらぬ未来が暗示される。冒険奇譚として考えず楽しめる前期と、歴史を踏まえた無秩序の後期に分裂する、その交差点が『紅の豚』である、という下らぬ予想が見事木っ端微塵に。んなことはなかった。ロマン主義の駿の憧れ映画というわけではない仕上がりに。前半はやや冗長にウェットに言葉で感情を現していくんだが、フィナのホテルの上空を無言で旋回し生存を知らせるシーンからあと、言外のニュアンスで感情を美しく伝えていく。この映画は航空会社の依頼で作られたというが、現在もそのような特殊事情アニメはあるだろう。というか、たくさんあるのではないか。しかし、後ほど意味付けされるほどの豊かさをその諸作品が備えているのかは、わからない。どういった要素が、その分岐になるんだろうか。

19日、金。結局、元恋人の家に泊まる。会うのは3ヶ月ぶり。破産寸前だった。

20日、土。初日の「風立ちぬ」を新宿で。変に公開まで鼓舞してしまったのがわるかったのか、感動薄。「未来少年コナン」の躍動と比べると、画面はモッタリしており、動きで魅せるというよりは丁寧なストーリーで見せていく構成。中弛みの果て、急に展開が転がり出す。奈穂子が結核で遺書を残して以後である。描かれぬまま戦争は終わり、描かれぬまま零戦は犠牲を払い戻らなかった。残骸のなかに立ちすくむ二郎とカプローニ。なにが「生きて」か。俺にはさっぱりわからない。人間・宮崎駿の生涯が詰まった作品ではあろうが、昨年の「おおかみこども」のような果てしない感動はなかった。ブックファースト新宿で選書を見、録音に臨む。休講。

21日、日。続々と評があがるが、大きく割れていた。なかでも、岡田斗司夫によるものが群を抜いて面白い。二郎の目がきれいなものだけを追っていたというのだ。女と飛行機。

22日、月。みんな戻って来なかった、お前たちは生きてくれ、という俺をも含む戦後世代への応援歌なのか。ちゃんちゃらおかしい気もする。思わず鈴鹿ひろみ。

23日、火。離れて以来、毎日連絡を取っている。居間で寝かされそうになり、激怒したらしい。ご苦労様。

24日、水。三砂ちづる内田樹の対談集を読む。三砂の単著が図書館で貸出中だったのだ。しかし、巡り巡って内田の関係者の書籍に行き着くのは面白い。内田をその人と本だけでなく、周辺環境として楽しんでいるのだ。三砂と内田がここで言いたいのは、身体論みたいなことだ。身体の感性を上げると、ちがう世界が見えてきますよと。それは実証の甘いオカルト的な側面との結託でもある。が、最近の自分はそういう境の考えに触れたいために、刺激的だ。かつてはオカルト的なものに大反対だった。もう潔癖なまでに。今は、安藤礼二『近代論』の流れで、鈴木大拙井筒俊彦に触れている。日本という、近代以降学校制度が整い逸脱の難しくなった場所では、境をウロウロすることが、何かをものにするポイントになっているのは事実なのだろう。その辺りを見極めたい。

25日、木。参院選について話す。なぜその候補者を選んだのか、意図はひとそれぞれだ。そのそれぞれをみんなで参照できると違ってくると思った。芸術新潮「丹下」号と、美術手帖ヴェニスヴィエンナーレ号を立ち読み。太田佳代子と磯崎新のながい対談。BTは手が込んでいて日本館のレビューはアメリカとドイツの2種類もあった。蓮實柄谷文庫本は見つからず。

26日、金。人間原理の本を買った。青木薫氏のファンなのだ。親しい友人のブログがあまりにもよくて泣いてしまった。人はとんでもないことを考えていい。とんでもないことを秘めたまま死んでもいい。吐き出してそれが表現になってもいい、ならなくてもいい。閑話休題。「恋人」という言葉の耐用年数の果てに、新しい関係性は生まれ倫理的に破壊尽くされるのか問題。

27日、土。宇宙は高温高圧の状態で始まり、膨張を続けながらさまざまな構造が生まれた。膨張はこれからも加速し、物質は自然にまばらになっていく(そして極めて低温になり人は生きれなくなる)。いま現在の僕たちは、ビッグバン・モデルにすっかり馴染んでおり、宇宙の年齢が有限であることや、宇宙は進化しており、いろいろな時期にさまざまな構造が生まれたということを殆ど常識のごとく理解している。しかし、決してその常識が昔からあったわけではなかった。ということを、過去に遡って論じ、人間原理を解き明かす基盤を構築していく。高温すぎる水星、低温すぎる火星ではダメだったのだ。地球でなければ人はいることができなかったし、宇宙もなかった。『宇宙はなぜこのような宇宙なのか』読了。

28日、日。「モンスターズ・ユニバーシティ」鑑賞。ラストがいい。結局、復学できずに退学する。校長は最後まで冷たい。二人には能力があった。しかしマイクは怖さに欠けていた。サリーとのコンビで誰よりも二人なら怖がらすことができると証明した(パワーゲイジが崩壊したのは、校長以上の力だったことの証明だろう)。でも、組織には規則がある。規則を破るとそこにはいられない。散々組織に属さずともうまくいくかもしれないという基調だった本編の終わりに楽観的にではいられない現実も見せる。要は運もあるのだ。強かろう弱かろう、運のあるなしが人生の幸せを決めるわけではないのだ。どうなるかわからない。なるようにしかならない。過去の描いた夢との整合性は取れないかもしれない。けれどそれが不幸であるとは限らない。人種もエスニシティもバラバラな人たちが暮らすアメリカの坩堝的現在を引き受けたアメリカらしく痛快な一本。「ザ・ノンフィクション」の「おじいちゃんの遺言」がクソよかった。京大を卒業し一旦は別会社に勤めるも司法試験を受け一発合格で都内の初任給1500万円の知財事務所に内定。けれど、弱者の問題に取り組みたいと蹴って大阪の事務所にきた20代後半の女性。かたや、8度の試験不合格を経て弁護士になった女性。主に前者が、途中少しの後者が、描かれていく。石綿訴訟が中心にでてくる。アスベストだ。石綿工場で働いていたことのある70代後半の男性の家に弁護士は通い詰める。もうじき死ぬかもしれないが、とにかく通う。弁護士と、原告男性。この関係性が変にねじれていくのだ。裁判を起こしたいのは誰だ?なんのためにするのか?が問われてくる。通常は、原告が頼んで弁護士が引き受けるものだが、こちらでは弁護士が主導だ。突然弁護士がやってきて、おじいちゃんに依頼した。協力してくれと。それは弁護士の持ち前の明るさからなのか、おじいちゃんは次第に弁護士を受け入れていく。もう死ぬ間際なのに。もう死ぬ間際だから、かもしれない。おじいちゃんとその妻は2万円のアパートに暮らしている。妻はしんどそうに生きている。押しかけてきた弁護士は厄介者にも見える。最後の夫婦の時間を壊してもいるから。しかし、この弁護士さんのおかげで、おじいちゃんは生きている快感を得ている。弁護士の行為もよくわからない。休日におじいちゃんのふるさとに行って写真を撮ってきたりする。そんなことをせずとも、協力関係は終わらないだろうに。おじいちゃんはよくわからなくなってるし、弁護士もおそらくよくわからなくなっている。けれど、人間関係はいつのまにかよくわからなくなっていくもんだと思うのだ。それがすごくよく描かれている。捨象されずに、そこにある。もうひとつのファクターとして、もうひとりの弁護士がいる。彼女は原告の依頼で就任した路上問題を扱う新米弁護士だ。彼女は裁判に負け、原告たちに総スカンにあう。言葉は酷い。頑張った彼女に対して関西弁で非難と冷笑が浴びせられる。原告が対になっている。自ら頼まなくとも、協力を惜しまず複雑な人間関係が生まれた石綿原告と、自ら頼んでおいてしかしいつのまにか他人のように冷笑を浴びせてしまう路上原告。話が複雑になるのは、実はおじいちゃんは負けたのだ。裁判で。しかも55人中50人は認められたのに、おじいちゃんは認められなかった。弁護士は泣く。おじいちゃんは勝てなかったことではなく、自分がマイナスに作用したのかもしれないと思って悲しむ。原告団のひとつの目的として、一人あたり2000万円の賠償金を獲得することがある。国を訴えたいという正義感もあるだろうが、背に腹は変えられずその金額を目的とする原告もいるだろう。そして、きっとおじいちゃんの妻もそのお金は必要だろう。けれど、なぜか異様にもそのお金は問題とされず、おじいちゃんは悲しみ、そして弁護士との愛のさなかに死んでいく。複雑に絡み合ったドキュメンタリーは様々なことを想起させ、冒頭からラストまで泣き通しだった。よかった。

31日、水。昔付き合ってた子と再会。一年ぶりに。初めて真剣に付き合って最後は一方的にフラれていたので会う前はどきどきしていた。コンサートを見て駅で飲んでその子の家で5時まで飲んでアニメ見て寝て仕事に送った。いい話ができたし支えてあげたいと思った。