岡田利規の演劇論。

遡行 ---変形していくための演劇論

遡行 ---変形していくための演劇論

『遡行』(河出書房新社)読了。

発売前から話題沸騰だったこの本。「岡田利規の演劇論」という謳い文句。内実は、彼の演劇製作歴を最新のものから過去作に遡ったのもの。だが、うまいこと演劇論になっている。
理論化された精緻な形の論を期待すると拍子抜けするかもしれない。しかし、このようなかたちでしか語れない(おおいに語れる)のが、岡田による演劇論なのだろう。
読む前は、つまらないだろうと予想してた。
一度しかチェルフィッチュの演劇を見たことがなく、それをひどく退屈だと捉えてしまい、
自分には縁のない劇作家・演出家・集団だと考えていたからだ。
「退屈であること」も織り込み済みであるという態度でかわされたら、とか、
訳知り顔の評論家や演劇かじってるアカデミズムの人がよくわかんない(すっとんきょんな)称賛してたら
イヤだな、というのがあり(おそらく)積極的には見て来なかった。

思案のすえ今読まなきゃずっと読まないだろうと思われたので買って読んだ。
思いの外、よかった。岡田書くところの「働きかけてくる効果」があった。
こういう書き方でしか伝わらないことは確かにあると強く思わせてくれた。
STスポットへの愛、塩田千春との交流、ダンスへの思い、
公共劇場との関係、六本木のスーパーデラックスという場所性、
回の出来によってカーテンコールの数が異なってくる、
ドイツの演劇祭と、ドイツの劇場の取り組み方、
おもしろかった。
上に書いた一度だけ観たチェルフィッチュの作品は、
「ゾウガメのソニックライフ」という作品。
読み終わってみると、岡田自身にとって意欲的に取り組み大事な作品であったなら、
退屈で、からだを席に収めるのが辛くてモゾモゾして、途中退場を考えたぐらいの舞台だったけど、
見れてよかったと心からおもい、不思議なきもちで昨日は眠った。

あ、群像の、ゼロコストハウスも読んだ。
こういうのは、誰かがやらなきゃいけない。
でも、だれもやっていなかった。なぜなんだろう。
自分が演劇で一旗揚げようとしてたら、まっさきに手段にしそうなことなのに。

「・・・と思っていた。だが、実際触れてみると・・・だった」
みたいな書き方は、驚いた時に必ず使ってしまう。
「だが」のあとを、仔細に述べたのが、世に溢れる感想なのかな。
「・・・と思っていた」に、否定的な感情を含む時には、「だが」のあとへの可能性は極端に減るのだろうか。
つまり、つまらないと思えば、みないのか。
だから、このような語り方に触れる機会が、殆ど、ないのか。
このような語り方は好きだ。

でも、変えてみたいな。一度はね。

  20時10分追記
公開リハーサルというのが始まった。
女優はしゃべる。
「私はいつもこの地面のことを考えていて、
そうです、地面のことが頭から離れることは片時もなくて

というのも、私はいつも地面の中にいるからです

小さな骨のよせあつめ
〜容れ物のなかで〜うずくまって時間がすぎるのを待って

時間が流れるって言い方はみんな簡単にいいますけど

たしかめてみようと」

これは演劇だよね。
指示が細かい。こんなことが行われておったのだな。
「もうちょっと声上げて、わかるよね?」
「吸い込むように」「コンディションが整うまで始めなくていいから、盤石、になるまで」

佐々木:やっぱ言葉遣いがすごい独特。


佐々木:吸い上げるってなんですか。



ドミューンまで、佐々木敦の『即興の解体』(青土社)。
前後編に分かれており、前編は音楽、後半は演劇に割かれている。

即興の解体/懐胎 演奏と演劇のアポリア

即興の解体/懐胎 演奏と演劇のアポリア

佐々木敦の本は、『ニッポンの思想』(講談社)を読んだことが有り、新潮で連載していた「批評時空間」もほぼ全部読んでいた。
椹木野衣の書評がよかった。文學界連載の「シチュエーションズ」も、興味がある回は読んでいる。
佐々木敦の文章が、いったいなんで有り、どう受け止めたらいいかも、自分にはわからない。
批評とはなにか、とか、司会とはなにか、ってことも、今の自分にとっては重要なことで、
グダグダと、これからも、あと少しは、考えるのだろう。

おそらく、マームとジプシーについても、考えるのだろう。


『三月の5日間』、明日、図書館で、借りてみよう。予約した。amazonの本のページに、図書館に蔵書あるかないか確認できるchromeの拡張ツールを導入した。これは便利なのだ。

で、いまはドミューンを見ている。
佐々木敦がしゃべっている。おれは黙っていて、録音をしている。




左端は編集の九龍さん。

群像でZERO COST HOUSE読みました。これが初めての岡田利規戯曲体験。
単純に引き込まれて、夢中で読了。
それがまず素晴らしい。戯曲の強さを知った。それっぽくかっこいいから読める、ってことはいくらでもあるけど、夢中にさせる。
ZERO COST HOUSEに関しては、こういう戯曲の必要性。
日本において、もっと現代とのリンクが欲しい。
いまの各分野の研究では、過去のメディア作品の内容から同時代を類推することが多いです。
そのためにも、戯曲には、現代をつぶさに表すことに意図的になってほしい。
いま「最高の離婚」というドラマを見ていて、内容において今を生きる日本人ならニヤリとさせられる固有名詞が散りばめられてる。
つまりこれは、あああるあるを誘発するし、一方ではすぐに陳腐になりうる。
でも、最先端を目指した時に、ちゃんと最先端になっていることは大切だ。
岡田利規の戯曲「三月の5日間」の白水社HPに掲載の選評を読むに、分かっていないな、と思わされた。
「三月〜」の中の日本は明らかに“最先端のようでいてズレてる日本”に思われたからだ。
ただ、この「ZERO〜」は、最先端を描くことは鼻から意図されず、最先端に並走した切実なカルチャーにおける最先端を描いている。だから、坂口恭平が実際に出てくる。「ゾウガメ〜」では、國分功一郎が下敷きになっている気がした。あそこでは、定住しない生き方についての数分間にもわたるモノローグがあったから。一方、今回は、坂口恭平。どことなく追随のように思われるかも知らないが、でもたしかに時代に並走している、その書きっぷりには感心さずにはおれない。
この作品は海外では不評だという。日本の観客は、どのような層が見に行くのだろうか。
普段のチェルフィッチュ好き以外も、行くことだろう。それこそ、新政府展にも行ったような層。
アカデミックな人たちとも、演劇関係者ともちがういろんな人達と、チェルフィッチュの舞台や戯曲について語ってみたい。
そう思わせてくれるだけの、時代性と、そこからのズレを持っている。